2016年御翼12月号その1

                                        

金の価値―1927(昭和2)年12月  内村鑑三全集30 より抜粋  

 金は決して無価値のものでない。此(これ)は勤労の汗の結晶である。正直なる労働に報ゆる天の賜物である。之を浪費してはならない。金は之を人生の至上善と見る時に其無価値が認めらる。金は比較的に貴いのであつて絶対的に貴いのでない。或る場合に於て必要欠くべからざる者であつて他の場合に於て何の用もなき者である。難船遭ふて洋上に漂ふ場合に、一片のパンは千斤(一斤=600g)の金よりも貴くある。そして人は死に臨んで金は何の力にもならない。富者(ふしゃ)は貧者の如くに死なねばならぬ。富者たるは唯(ただ)つかの間である。
 そして万物万事を永遠の立場より評価し給ひしイエスは富の真価を我等に教へ給うたのである。
 蠹(しみ)くひ銹(さび)くさり盗人穿(うが)ちて窃(ぬす)む所の地に財を蓄ふること勿(なか)れ、蠹(しみ)くひ銹(さび)くさり盗人穿(うが)ちて窃(ぬす)まざる所の天に財を蓄ふべし、そは汝等(なんじら)の財の在る所に心も亦(また)在るべければ也(馬太伝六章一九~二○節)。
此は財を軽んじた言でない、地を軽んじた言である。イエスは多くの人が思ふ如くに富を賎(いや)しめ給はなかつた。彼は人は貧ならざれば天国に入る能(あた)はずとは教へ給はなかつた。聖フランシス(中世イタリアの聖人)の聖貧主義は決してイエスの主義ではなかった。然(しか)し乍(なが)らイエスは富を至上善とは認め給はなかつた。一生涯を蓄財の為に費やして、無一物となりて逝(ゆ)く、そして其財は他人の有となると[は] 珍しき事に非ずと雖(いえど)も、其教訓を覚える者の(すくな)きは不思議である。
 永遠的に見て価値無き財も使用法如何に由て之を価値あるものと為す事が出来るとは、亦イエスの教へ給ふ所である。此世の財も、天に蓄ふれば、天と共に銹(さ)びず又朽ちずと云ふのである。財は全然之を己が為に用ゐざる訳には行かずと雖も、己が為に用ゐし分は其儘(そのまま)にて効力を失ふ。然れども愛を以て之を他人の為に用ゐて其効果は永遠に失せずと云ふのである。誠に貴い教訓である。財を他人の為に用ゐて之を永遠に保存した例は尠くない。

 そして内村は、百万円も一円も富であり、一円でも自分の為に用いれば効力を失い、他人の為に用いればその効力を永遠に保存するという。それは、十分の一の献金額が一円である貧しい者も、大富豪が百万円を与える快楽を、同様に得られることを意味する。慈善は考えずしてやたらに為すべき事ではないが、自分の為に計算するように、他人の為に計り、人の為に用いて、私たちは永遠に満たされることができる。慈善は義務ではない。最大の快楽、最上の知恵である、と内村は言う。

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